えんがちょの向こう側

えんがちょの向こう側

風神録以後

 

 ――妖怪の山。中腹に掛けて長い参道が伸びている。正面を見据えて進むと、なぜか社ではなく湖にたどり着く。

 道を迷うは八坂造の結界の所為である。鬼道にして王道。位相の書き換え。もとより八の坂(無数の坂)と解く文字であるから、違えるのも当然と言える。

 

 日暮れの湖に浮かぶ御柱八坂神奈子はそこに在す(まします)。膝に棋盤を抱えて頭を唸らせる。

「早苗、早苗や。結局社の巫女は何人残った」

「ご覧のとおりです。風祝が一。神様が二。計三騎ですね」

「答えになってないぞ。棋峙にもならん」

 神奈子はウムムとやはり唸ってばかりいる。今更わかりきったことを聞いて、早苗は少しばかり不安を覚える。楽観的で間の抜けた早苗の持つ不安と言っても、限りあるものに違いないのであるが。

「どうするんですか?」

「無論、変わらん。八坂の戦に負けはないよ」

 ギュ、と駒を握りつぶして投げ捨てた。乾坤一擲というやつである。

 

 

 ――

 

 

「夜が更けてきたね。こりゃ明日の朝まで待たないとダメかな? 神奈子、こっちから行っちゃう?」

 ヒョッコリと御柱に上るのは洩矢諏訪子。酷い猫背であるものだから、カエル座りでないとすぐに腰をやってしまうとの談。ペロリと長い舌を這わせ、歪んだ笑みを浮かべるさまは祟り神の首魁にふさわしい。神奈子は努めてこれを無視している。

「いや、必要ない。我々は侵略者であるけども――」

「水配り(ミクマリ)で狙撃しちゃっていい? 偵察の天狗が見えてうっとおしいんだよね」

「……。我々は信仰を広めに来たのだから、必ずしも支配者になる必要はないんだよ。無論勝利は前提だけれども――」

「あっ、諏訪子さま見てください。教えてもらったことを参考に神符を組んでみたんです。行きますよ~~~HEY! サモン・タケミナカタ――」

「……早苗、やめなさい。諏訪子もちょっと待てって……」

 

「……天狗というのは元来、大陸からの移住者であり、侵略者だった。つまるところ、私たちが今やっていることを昔やってた連中だ。空をご覧。麦星は分かるね、あれを昔は狗賓と呼んだ。天を輝いて駆けるものは、夜にしか見えない。なら連中は夜にやってくる。そういう連中だ」

 「侵略者ですか? 夷狄を払うのはなんたら権現様の仕事だって、本で読んだことあります! 祈っときますか? 神降ろし行っちゃいますか!?」

(シーッ、早苗、黙っとき、神奈子そろそろ怒るよ!)

  怒られたくないから黙っときますのジェスチァを構える早苗に、神奈子はいよいよ苦笑するばかりだった。

「言ったとおり、私たちは支配者になる必要はない。しかし天狗連中はどうも私らを舐めている節があるね。

「昔の話だが、諏訪の地にも天狗連中が仕えていたことがあった。いや、昔のことならどこの寺社にも連中の伝手は伸びていた。そういう連中が自分らの法理を持つってのは文字通り天狗になってるのさ。

「けど奴らが敬っているのは人間の法だ。規則を決めて、罰を決めて……。仏法を――仏法でも、随神の理法でもいいんだが――を蔑ろにしている連中だ」

 早苗はこれを聞き、ふんふんと頷いてコッソリ諏訪子に耳打ちする。

 (諏訪子さま諏訪子さま、この話、つまりは「神様舐めとんとちゃうぞコラ」ってやつなのですか!?)

(だから黙っとけって……神奈子はね、確かに法が恣意的に行使されることを嫌ってるけど、自分の法を強制することも嫌ったし、それが神仏への敬いを損なうものでも見逃すんだよ。)

 「神奈子! じゃあ聞くけれど、天狗を下して、そのあとに何をするって言ってたっけ! 山を開いて、産業を興すんだって!」

「あー……天下の大勢が転ずること、変ずると、技術や民衆の水準というのは……必ずしも関係しない! 按ずるにだ、変は、遡及する! ――――それよりだ、ほら見なさい。お待ちかねがやってきたよ」

 

 神奈子が指を指すと、夜空から星が消えていた。否、夜空こそが消えている。

 天を覆い尽くすほどに、天狗の真ッ黒な翼が広がっている。

 守矢神社が有するは三騎。対する天狗の里は、数千の天狗。これより、戦が始まるのである――――。